僕には、誇るべきものが何もない。
だけれど、「誠実」であることだけは、自分に対して厳しく臨んでいる。
それは、頭も弱く、弁も立たず、社交ができず、気が弱い自分が、何とか世を渡っていくため、武装できるただ一つの道具。それが誠実さだったからだ。
何も、高潔であるためではない。優れた人徳を磨くためでもない。
もっと下賤で消極的な要求のためだ。
何一つとりえのない自分が、何とかこの世の中を渡っていくために、自分にできることを探した結果、ただこれだけが、自分に残ったからである。
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自分に自信がない。
昔から自覚していて、また周りからも「もっと自信を持て」「もっと堂々としろ」と言われる。簡単そうなことで、とても難しいことだと思う。
世の中を見渡すと、堂々としている人とおどおどしている人、自信満々な人と不安そうな人、それぞれいる。そして、前者は、幸せそうである。後者は、不幸そうである。悩みが多そうだったり暗い。僕は後者だ。
自信は自分を信じると書く。自信があるということは自分を信じることができるということだ。自信がないとは自分を信じられないということだ。よくそう説明される。
自信をつけるとは、自分で自分を信じることができる状態になるということだ。そのために準備を万全にして、努力することだ。研究でも徹夜を厭わず、仕事でも極限まで働いた。他人を圧倒する準備と努力をすれば自信がついて堂々とできると思ったからだ。そう思って頑張ってきた。
でも、自分が自信満々になれたかといえば、全くなれなかった。あれだけ一生懸命やったのに、堂々どころか、相変わらず弱気で不安でなよなよしている。堂々としている人は自分よりも少ない仕事量で少ない努力で、それでもやはり堂々としている。なんて不公平なんだと。
自信の有無や風格は、生まれつきの性格や、育った環境によるものが大きいと思う。頑張っても、いくら努力しても、壁はあって、自信のない「性格」や、堂々としていない「性格」は、たぶん治らない。治らないけど、それをひとつの個性として受け入れることしか、できることがない。かつては克服しようと考えたが、諦めた。むしろ、受け入れたほうが、よっぽど気が楽になる。どうせ自分はこういう性格なんだと、竹を割ったようにあっさり認めてしまったほうが、精神衛生上よい。受け入れたうえで、どうしたらよいか、社会で生き残っていけるのかを考えたほうが、手っ取り早い。
自信がなく、風采が上がらない自分にとって、生き残るためには、結果を残すということだ。営業であれば成績、研究であれば論文。これだけを目標にして、ほかごとは追いやって、結果を出すことだけを目標にして、邁進する。ひとつ目標を決めたら、あとはそれだけを考え、そのほかの枝葉は適当にあしらう。人間関係でつまづこうが、他人から見下されようが、自分の価値を信じられなくても、バカにされようとも、結果を残すことだけを考える。結果さえ残せば、結果は自分の心棒になる。支えになる。
とにかくそのために、多少の犠牲と、自尊心を追っ払って、邁進すること。ひとを見ずに物を見る。人よりも事物。関係する人間関係は、大切だけど優先されるものではない。そう考えて、また一から頑張ろうと思う。
最近、憂うつな時間が多い。
何が原因というわけでもなく、押し寄せてくる不安と抑うつ。
沈んだ気持ちが、冬に冷やされて、ますます落ち込んでしまう。
たぶん、焦っているんだろうと思う。
自分の周囲の同年代は、子育てや新生活で新しい一歩を踏み出しているのに、ぼくはまだ何もできていない。実家で暮らしていて、10年前と変わらない生活を送っている。
30代はまだおじさんではないけど、若くはない。30歳になったとき、何の感慨も受けなかったが、書類に年齢を書くときは、やはり何かがこみあげてくる。
ぼくは人より数年遅れて生きている。精神年齢も、経験値も、同年代に比べて足らない。それは、石橋をたたいてたたいて渡る慎重な性格と、すぐ不安になる性向と、他人に対する恐れや卑屈な気持ちが、自分の次の一歩を踏み出すブレーキになってしまっているからだと思う。自分で自分の道を踏み出すのが怖くて逃げてきて、後先がなくなってからようやく焦って進みはじめる。そんな調子で数十年過ごしてきた。
変わらなきゃ、もっと成長しなくちゃ、と、ずっと焦りばかり募っていた。自分の性格や環境を呪ったりもした(今でも自分の性格は好きではない)。でも、自分の性格と付き合っていくうちに、この性格を自分が受け入れなかったら、誰も受け入れないだろうと思った。自分は自分が受け入れられなかった。それは、向上心が邪魔していたからだと思う。
自分の性格を直そうと努力した。巷にあふれる自己啓発書を読み漁った。啓発的な番組やドキュメントを見た。あこがれる人のまねをした。そうして自分を変えよう変えようと努力した。それでもうまくいかない。どこかでボロが出る。とっさに自分が出てしまう。落ち込む日々。
あるとき、諦めた。変わることは諦め、自分を諦めた。そうすると、自分を受け入れることができた。変な克己心がなくなった。今の自分ではいけないとか、本当の自分はもっと高いところにあるとか、そういう「今の自分」を認めない気持ちを捨て去り、どれだけ損しても、どれだけバカにされても、低く見られても、「自分はそういうふうになってしまったんだ」と諦めたとき、初めて自分を受け入れることができた。そして、それが新しい自分の人生のスタート地点になった。自分は自分で仕方がない。仕方がないなりにやっていくしかない。諦めて受け入れて、自分なりにやっていって、誰に文句を言われる筋合いがあるのだ、と。
憂うつな気持ちが続くとき、それはだいたい、自分の経験上、現状に満足していないときだ。今の自分の環境ややる気や姿勢や人との関わり方など、今のままではだめだと、変わらないといけない、と思っているとき、何となく憂うつになったり落ち込んだりする。憂うつは何かのサインであることも多い。もちろん過剰な時は病院に行ったほうがいいときある。でもそこまででなく、ただ漫然とした不安が抑うつの原因であるときは、まずは内省して落ち着いて自分の声を聴いてみることにしている。それはとてもつらい作業だけど、そうしないと解決しないまま、悪くなってしまう気がする。
今とても憂うつだ。そういうときは、コーヒーを飲みながら、少し、自分と話をしてみたいと思う。