内気で人見知りで話すのが苦手な社会人

不器用で内向きな人間の、日々の悩みや思考です

不安と吊り橋

とにかく行き詰っていた。思考は八方塞がりで鬱血していて、奇声と共に時折飛び散った。そんな状態が続いて偏頭痛が起きていたので、ナロンエースを飲んだところ、思考の巡りが穏やかになり、とても静かな境地になった。非常に久しぶりで嬉しかった。

だけど、とにかく家から出たい気分だった。同じ場所で同じ生活、同じ煩悶の繰り返しは、気が狂いそうになる。生きている心地があまりしない。とにかく日常と違うところに行きたかった。それで電車に乗って川に行った。駅からほど近いところに、人気もあまりない、静かな所である。

静かになって考えてみると、自分の思考の中で不要で余計なものは2つであり、一つは今後の生活に対する不安で、もう一つは自分の生来の気質に対する不満であった。

天竜川は、前夜の雨のせいで増水していた。濁った川の水が奔流となって岩を飲み込むように轟々と押し寄せていた。それを見下ろすように高いところに掛けられた吊り橋があって、それを渡って対岸に行けるようになっている。頑強な鉄製の橋なので安心して渡ると、意外に揺れる。足元は幅1mくらいはあるが薄い鉄板で、左右に金属の手綱が腰位の高さで渡してあるが、まともに下が見える。

歩くと揺れる。もし手綱がなければ、そして仮に強風が吹けば、落ちる。落ちれば濁流に飲み込まれる。そう考えると足が竦んだ。スマホを取り出して写真を撮ろうとする。落としたら間違いなく川に落ちる。もし手が滑ったら、と考えると、手が震える。一度そういう事態を想像すると、足も手も、力を入れないと前に進めなくなる。悪い事態を考えないようすればするほど考えてしまう。ますます足に力が入る。

でも冷静になれば、手綱は結局握っていない。仮になくても問題ない。足場も幅が1mもあるのだから足を滑らせても問題ない。十分に安全である。なのに不安が先行し、恐怖が手足を強張らせる。不安が不安を呼んで、要らない心配に仕向かせる。

はたと、今の状況と、今日の状況が、一致した。自分はこれからの生活に不安を感じて立ち竦んでいる。不安が不安を呼んで身動きが取れないでいる。心配で仕方がない。しかし怖くなっているのはこれからの生活についてではなく、ありもしない想像の不安に対してである。心配は増幅してますます心配になって、前に進むことができない。悪いことばかり考えてしまう。

一旦思考を停止する。分からない未来に対して立ち竦んでいたのでは、いつまでも進めない。前を向いて進むしかないのに、ずっと立ち止まってあれやこれや考えていたのでは、刻一刻と時間は過ぎてしまう。考えたところでそのとおり事が運ぶわけでもない。だから、一旦不安するのをやめて、進むことに集中する。前だけを見て、余計なことは考えない。

橋の中途でそんなことを考えた。それで、余計なことを考えるのをやめた。一歩一歩、歩いた。怖さは怖いと思うと怖くなる。良くないことを考えると、良くないことが本当に起きるような気もしたので、考えないようにした。考えずに前だけ見て歩いた。無事橋は渡れた。手綱も結局掴まなかった。

当たり前のことが分かった。

・・・・

もっと大きな鉄橋がある。そこに行くにははかなり登らなければないけないので登った。帰り道も同じ道なので、下った。下りながら思った。

最近僕は、なぜ自分はこんな性格で、こんな境遇なのだろうと嘆くことが多かった。なぜ周りに比べて生きにくい性質なのだろうと、つらく思うことがあった。だけど思った。うまくいく人はうまくいくように生きている。僕はただうまくいっていない、ただそれだけのことである。今の自分の境遇であっても、「あの時ああしていれば」とか、それまでの努力の過程を無視すれば、なるようになって、ただそこに置かれている。そして置かれたところで自分のやり方でやっている。うまくいった人も、同じように、なるようになってそうなった。ただそれだけのことである。

列車の車窓から、こんなところに何でと思う所に集落がある。木々は鬱蒼と茂っている。だけど、そこに住んでいる人や、そこに生えている木だって、何故そこに生まれたのかと聞かれたら、ただそこに生まれたからだと答えるよりほかにない。

大体のことは、訳もなくそうなって、そこで生きている。自分の性格だって、遺伝と環境は自分の意図とは関係なく与えられて、それで今に至っている。自分の人生にしても、なるようになってそうなったのであって、確かな訳というものはない。そう考えると、自分の位置というものは、自分で作り出したというより、訳もなくそこに置かれたと考える方が自然だ。大きな自然というもののなかで、たまたまそこに置かれて、その役割を全うして、生きていく。

自然は理由を考えないから純粋だ。ところが人間は、妬んだり、羨んだり、恨んだりする。だけれど、広い世界や自然の中でみれば、大した理由はないように思われる。訳もなくそこで生かされており、隣の人は隣の人で、向かいの人は向かいの人で、別々に生きている。

もしそこに、自分が自分の性質によって何かの役割があるとして、その役割を受け入れ、その役割を担うことで自然の一部になるのであれば、それはすばらしいことだ。自分というものを受け入れて、自分のやり方で何かして、自分を全うすることができれば、それがいい。自分の存在に対する理由を考えるのをやめて、自分というものを忘れて生きていくことが、自然であり、真理であるように思われる。