内気で人見知りで話すのが苦手な社会人

不器用で内向きな人間の、日々の悩みや思考です

幸せになりたくて

幸せになりたいと願い、幸せについて考えるほど、幸せが分からなくなっていく。

私は研究的な性格であるため、大学生のとき、幸せとは何か、解明したいと考えました。

それまで、幸せとは人生における一つの位地で、一つの階層であると思っていました。

ですから、幸せとは何かを考えようとすると、人生とは何かという問題も必然考えなければならない。その解決を哲学書に求めました。

哲学書は難解で特に専攻していたわけではない私には理解ができない部分もありましたが、必死に自分の半生と照らし合わせながら、人生とは何か、目的とは何か、幸せとは何か、答を求め、書物を紐解き格闘しました。でもなかなか見つからない。理解できない。

書物の提示する、人間の在り方のようなものは、とても自分には達成できそうにない、また、社会でやっていけそうにない。さりとて世間に迎合する俗物にもなりたくない。せっかく生きているのだから「生きるとはかくあるべし」を体現したい。そんな葛藤がありました。それで自分のなるべき人物像、将来像を探したのです。大学生の時です。

実際、自分はそうした理想像に憧れ、努力はしたつもりでした。しかし、自分はすぐに人に言い負かされるし、勉強もできない、運動もできない、性格的にも引っ込み思案で何かを先陣切って進むこともできない。自分は何もできない。理想的な思想や観念ばかりが固まって肥大し、一方で行動や腕力に反映されない。頭でっかちだが形が伴わない、妙にちんちくりんな人間ができあがあっていったように思います。

 

私は兄さんの話を聞いて、始めて何も考えていない人の顔が一番気高いと云った兄さんの心を理解する事ができました。兄さんがこの判断に到着したのは、全く考えた御蔭です。しかし考えた御蔭でこの境界には這入れないのです。兄さんは幸福になりたいと思って、ただ幸福の研究ばかりしたのです。ところがいくら研究を積んでも、幸福は依然として対岸にあったのです。(行人、夏目漱石

 

内向的なことは損なことか

無性に生きていきたくなくなる時がある。

自分の価値を信じられなくなり、自分の存在の無意味さに耐えられない。

日常の些細な事に傷つき、自分を責め、孤立していく(気がする)。

声を上げることができない人は損だ。世の中はそういう風にできている。

僕は声を出すのが苦手で、話しかけるのが苦手で、会話が苦手だ。

しなくていい苦労を背負って、貧乏くじを引かされ、裏切られ、利用され、ぞんざいに扱われ、、、。

鈍感だったらどれだけ楽だったろう。能天気だったらどれだけ幸せだったろう。

色んな人がいる。多様性で世界は成り立っている。だから一人一人の個性が大事だ。そんなことは机上のきれいごとだ。一般の社会を渡っていく上で、有利な特性、得な性格、生きやすい性格、どれだけうらやましく思ったことだろう。自分が情けなくなるほど、不利で、損で、生きにくく、辛い思いをしてきたろう。なんて不公平に世界は成り立っているのかと恨んだ。努力が報われにくい性格なのだ。

疲れたり睡眠不足になると、そういった負の感情が、過去の嫌な思い出とともに、心の沼の底から沸き起こってくる。

辛くて、哀しくて、未来も暗く、一切がそっぽを向いて、自分ひとり、茨の道を進んでいかなければならないという気持ち。

どうしたら救われるのか。

どうしたら未来は明るく前方を照らすのか。

そんなことを考えながら、寝ます。

このブログについて

「内向的なわたくし」というブログのタイトルは、そのまま自分の性格を表現したものです。自分は物心ついた時から、内向的だったと思います。

内向的と、対人恐怖というのは、似ているが性質を異にすると聞きます。私は対人恐怖でした。

 

人と交わる場面を避ける。

パーティーが苦手。

飲み会が苦手。

友達ができない。

雑談が苦手。

 

いろいろな苦手を背負うことになりました。いずれ、年を経れば、克服されるものと思ってきましたが、実際はそうでもない。常に、後ろめたさはあるし、人に対する苦手意識があるし、緊張しやすい、話をするのが苦手という気持ちが、容赦なく襲ってきます。

 

そうした辛さは理解されにくいし相談しにくい。だから、こうしてブログに綴ってみたい。その思いでブログをはじめました。もしかしたら、同じような気持ちを持っているひともいるのかもしれない。そうしたひとが、文章を読んだとき、気づくもの、気づかされるもの、ヒントになるもの、そうしたものが、あるのかもしれない。

 

ひとりで悩んでいると、沼に落ち込んでいってしまう。だけど、ひとりじゃないんだと思えば、少し、楽になるかもしれない。

 

そういう気持ちでこのブログを書いて行けたらと思います。