内気で人見知りで話すのが苦手な社会人

不器用で内向きな人間の、日々の悩みや思考です

辛い日々

辛くて仕方がない。

気持ちが落ちてどうしようもない時期が時折来る。

そういう時は、大体自信を失っている時だ。もとより自信はないのだが、普段被っている自信の皮が剥がれて、むき出しの落ちこぼれになっている。

社会で生きていくには自己主張できなければいけない。そうでないと、いいように利用されて終わりになってしまう。だけれど自己主張できない。自分に自信がないからだ。

仕事も下手で不器用で、趣味もなく、伴侶もなく、人に負い目のある自分が、何故生きて存在しているのだろうと思ってしまうと、とてつもない沼の底に行ってしまう。自分の存在意義が漠然としてしまう。そんなときは、ふと〇んだら楽になれるのに、何故生きているのだろうと思ってしまう。そこまで思わないにしても、この自分の日常に何の意味があるのか、苦しいだけじゃないか、と思ってしまう。

 

でも生きなければいけない。生きることそれ自身が目的であり目標だと思えば、何とか生きていく。高貴な目標も、高い志も、今はなくても、とにかく死なないように生きることを考えて、日常を乗り切る。

「生かされている」という言葉は、深い意味ではなくて、本当にそのまま「生かされている」ということだ。語弊なく言って、もとから意味なく生まれてきた。意味を作り出すのが生きることとはいえ、それが難しいときだってある。充実した生に向かって生きることが精神的に困難なときだってある。それは究極の生の肯定様式であって、そこに至れていないときだってあったっていいじゃないか。惨めであっても、負い目があっても、「生かされている」のだから、生きるほかよりない。持って与えられたものが粗末であっても、情けない姿を晒していても、それで何とか生きることが、自分に与えられた命であると諦めて、生きていく。

「生かされている」という考え方は、たとえ受動的と言われようと、私にとっては救いになった。そして死ぬときは、それは天命である。

人を利用しようとする人もいるし、出世する人もいる、自信満々な人もいる。

なのになぜ自分のような人間が生きているかと言われれば、哲学的な答えを抜きにしたら、種の多様性である。色々な人が、然るべき遺伝子によって生かされておる。だから、生物的多様性だから仕方がない。個々の劣等感とか不公平は、性質と環境の関係性のなかで生まれる。今の社会は、あまりに生きやすい道路の幅が狭い気がする。

でも、たとえ今の社会で生きていくのがつらくても、そうした遺伝子を与えられ、生を与えられてしまったのだから、それで生きていくしかない。上も下もない。仕事の出世とか、富の裕福とは、別の次元で、自分の生が意味もなく与えられている以上、それで生きていくしかないと割り切って、何とかやっていく。

たとえサイコパスみたいに人を利用してのし上がることが選択肢としてあったとしても、僕はたぶんそれを選択できない。そういう性格だからだ。それが僕の生き方であり、生き様だ。工夫はできる。でも生き方を変えることはできない。自分を変えるというのは、難しい。でも、自分の生き方の延長線上に、一歩前に進む、一つ乗り越える、そういうことで、何とか生きていくしかないんじゃないか、と思った。