内気で人見知りで話すのが苦手な社会人

不器用で内向きな人間の、日々の悩みや思考です

人生という一つの旅

私の旅は、一つの区切りを迎えようとしている。

旅。私は自分が嫌いだった。何もできない自分。どろどろして、なんのために存在しているのか分からなくて、存在していて良いのかと自問自答するような自分。そんな自分を変えたくて、私は高校を卒業し実家を飛び出して、関西の大学にひとり暮らしをして、卒業したら東京に就職へ、それぞれ異なる環境に飛び込んで、これまでとは違った新しい自分に脱皮するために希望を持って進んでいった。私は、それらの環境で、苦い味を味わい、楽しい味を嗜み、様々な経験を積んでいった。その目的はただ一つで、私が、私の価値を、私自身が信じることができるだけの人間になるためであった。自信に満ち、明るく賢く機転が利き、人を引き付ける魅力を備えた人となって、信念をもって人生を猪突猛進する人間になるためであった。

私の青春時代は暗澹たる様で、思い出したくもない。その時分を語ろうとすると、私は沈黙してしまう。何を成し遂げるでもなく、何か目標があるでもなく、一日一日を過ごし、実際その積み重ねは中学高校の6年間という、若さの持つエネルギーを発散するには長すぎる時間を、どこに吐き出していいのかわからないまま無駄に過ごした。みじめで情けなく申し訳ない自分。外にでるのも億劫で一番安心する場所が図書館。塾の自習室にも怖くて入れない。そんな生活が、自分の人格を形成した、すなわち劣等感と罪悪感を屋台骨に据えて、触ればすぐに崩れ落ちてしまうような立て付けの良くない家が出来上がってしまった。青春時代の最後のほうではせめて受験はということで勉強して何とかいい大学に入った。でもそれは、建付けの良くない建物がひとつ出来上がったというだけだ。それから何をその建物に入れていくかである。それを私は大学生活に賭けたのである。

 

私が大学にはいってから、それから社会人になってから、個々の体験、経験をここでは挙げない。すべては一つの気持ち、つまり、高校までの生活で成し遂げられなかったことを、私はここでやり直そう、やり直したら、きっと自分のあこがれる人に近づけるだろう、その一心から私は人生の選択を行ってきた。スポーツができないといけないという気持ちからスポーツをし、しゃべれるようにならなければならないという気持ちから講師のアルバイトをし、勉学に励まなければならないからという気持ちから研究に専念した。私は強くなりたい、極限まで頑張るのが人間だ、という気持ちから、徹夜で勉強した。

それらは、たまにうまくいき、たまに失敗し、それでも一生懸命に頑張った。頑張って、人格を形成し、たゆまぬ努力と根性を身に付ける。一心不乱の人生を送る。その先に幸せな人生が待ち受けている。青春時代を犠牲にした幸せというものを、自分の努力でつかみ取るのだ。

私が、自分の人生を、落ち着いて振り返り、また先を見据えることがゆっくりできたのは、それから数年の歳月を経てからだった。優しい環境で、私は自分の人生についてゆっくりと振り返った。自分の人生の先をどう描くかは、持っている自分の才能と努力と根性によるものだとしても、一人の人生を全体としてみるのであれば、あくまでそれは過去の延長線上にしかなりえない。ある時点で完全に方向が転換するなんてことは無い。そして、私がこれまで人から見られてきた自分、認められなかった自分、認めたくない自分、なりたい自分との乖離、すべての影響を遮断して自分とは何者か、本当は何をしたいのか、何をしているときが幸せなのか、何をするべきなのか、また、家族との関係、生まれてきた理由。そういったものを、名誉とか、功名心とか、地位とか、人からどう見られるか、とか、そういったものをすべて排除して、自分と向き合ったとき、本当に私が、このまま東京にいていいのだろうか。東京にいて、自分は幸せになれるのだろうか。楽しく人生を過ごせるのだろうか。そんなことを考えることができた。

 思い出しても情けないが、私は魅力的で、人を寄せ付ける雰囲気を持つでもない。人の上に立つ人間でもない。それは昔から変わっていないし今でもきっとそうだ。人の上に立つことを楽しむ人柄でもない。

私が、静かな環境で考えたとき、そしていろいろな本を読んだり、映画を見たり、何をしている時が自分が一番たのしいのか、一番落ち着くのか。人付き合いをしている時が楽しいのか、静かに一人で本を読んだりしている時のほうが楽しいのか。一度自分を裸になって、一切のこれまでの努力とか犠牲とか、そういったものを省みることをやめて、自分の前も後ろも見ず、己の今だけを見つめたときに、一つの答えとして、故郷に戻るのが一番いい選択肢なのかもしれないと思ったのだ。

もちろん、全く後悔がないわけがない。本当にこの決断でよいのか、ということは常々考えた。私は、世の中を、自分が生まれた時よりも、自分が死んだ時に、より良いものにしたいという夢をもって職場を選んだのではないのか。志を共にした仲間たちと一緒に切磋琢磨を誓ったのではなかったか。歴史に名を残すという目標を打ち立てたのではなかったか。挙げればきりのない、かつてこう考えたではないか、昔の浪漫をどこに放り捨てたのか。職場を去るには厚い上着と誇りを脱がないといけない。逆にそれがこれまで私を逡巡させてきたものだったのかもしれない。

しかし、私が一つ、今回の決断を下すことができたのは、私がひとつ、自分をみとめることができたためだと考えている。すなわち、人にはさまざまあって、五体満足意気揚々の人もいれば、身体にハンデを抱える人も、精神にハンデを抱える人もいる。前を向いて、社会のために、他人のために、力を尽くすことができる人もいる。一方で、自分が生きるのに精一杯の人もいる。生きることがなんと楽しいことかと生を充実させる人もいれば、生きることが辛く重く圧し掛かり、生と死の間を行ったり来たりしながら、何とか耐えて生き忍んでいる人もいる。そして、それらの人生は、生まれた時点で選ぶ訳でもなく理由なく与えられた。与えられた人生を全うするのが人間の本分であるとすれば、どのような生き方をするかについて、誰がその人の生き方を否定したり批判することができるだろう。そんなことを考えることが多くなった。そして、その生き方が、一つの流れとしてあり、がむしゃらに突っ走っている時には見えなくなって、辛いとき、苦しいときに、はたと立ち止まって振り返ってみたときに、過去の一連の流れが、自分に本当に合っているかを、他人の人生と見比べることなく、自分自身と見つめあったときに、もし流れに背いているのであれば、または、本心からはみ出しているのではないかと思うのであれば、その流れ、それを運命というのであれば、自分のなすべき人生というものからはみ出してしまっていることを示しているのかもしれない。

自分のなすべき人生。それは誰にも分らない、また自分にも当然わからない。期待されているもの、他人の評価というものは、一つの物差しになり得たとしても、それが絶対であるものでもない。ただ唯一間違いのないことは、その人生が、本当に自分が望んでいるものであるかどうか、自分がこうありたいと、無意識に思っているものであるか、その人生を選んでいる際に、本当に自分がそれを望んで選んでいるのか、そしてその選んだ道をやり抜きとおす、生き通す責任を己が持つ覚悟があるのか、それが自分の判断のただ一つの指標になるということだ。名声や、お金、そういった類いのものは、自分が貫き通したい道を進んでいく過程で得られる付随物であるべきである。付随物を目標にして進んでいく道には、不幸が待っている。なぜなら、それらが得られたところで、自分というものは変わらないし、その過程が不幸であったり辛いものであるならば、それらが得られたら幸せになり楽しいものになるのかと考えたときに、とてもそうとは思えない。なぜなら名声やお金、尊敬、そういったものは、自分に足りない何か精神的なものの代替品として求めているのであって、私がこれまで経験してきたことから、それらを得たところで何らの代替となることがなく、結局自分は自分であるということに気付くだけだからだ。

つまるところ、自分の最良の人生を選ぶにあたって、一番大切なことは、自分を、自分らしさを、認めることに他ならない。自分を認めたうえで、自分にとって何が最良かを考えることが、何より大切である。

自己啓発にある根性論や、成功のためのハウツー本、成功せよ、名誉を獲得せよ、の流れ出る波。こういったものが東京には蠢き、またそうしたものを手に入れた人たちは、それに続けと倣う人達が集まっている。しかし考えなければいけないことは、「本当」に自分はそうしたいのか、自分はそうすることで健やかに過ごせるのか、人生を息切れすることなく生ききれるのかということだ。無理をして、中には死を選ぶ人もいる。東京の通勤電車を見れば、精気にあふれた人と、疲れ切った人と、両極端が存在している。そしてそれは、精神的な貧富の開きの縮図でもある。必ずしも人は、成功を収めなければならないわけではない。それぞれ人々に課せられた人生は、人それぞれだ。私は黒部渓谷鉄道で見た。若い女性が、身内でおそらくは体に障害を負っているであろう男性を、庇いながら、助けながら、観光し道案内し進んでいく光景を。本当に美しかった。成功を求めて日々働く人は勿論素晴らしいし、なくてはならない人たちである。しかし、同じくらいあの光景は素晴らしかったし、何よりも人間らしかった。そして、私はそれを見てわが身を見て、私が犠牲にするべきものではないものを、私は犠牲にしつつあるのではないかと思った。私にとって、本当にすべきことは、私を育くみ、私を大切にし、私を楽しませてくれた家族を、同じように私が大切にし、今度は私が彼らを幸せにする番なのではないかと思ったのだ。 

 私は国のためを思って、国のためになることを願って、その指針を我が仕事と我が人生の一本の針路として、私が遭難しそうなときは導くべき目標として、また私が苦難に打ちひしがれているときはしがみ付く手綱として、私は生きてきた。苦難は超えるために、涙は乾かすためにあるものと思って歩んできた。その過程で、たとえ自分がみじめになっても、自分が自分の価値をやつしても、それは些末なことであると思って生きた来た。しかし、そうしたところで何も世界は変わらない。世界は自分が映す鏡であり、世界は私にとっての世界であって、世界は変わらない。変わるのは自分の心であった。

私自身の心のよりどころなど、朽ちて折れてしまうほど弱い。私は宗教に自分の身を寄せる場所を探そうとしたこともあった。しかし、宗教も頼ることはできなかった。そこまでの覚悟がなかったからだ。私は結局私を信じることしかできない。

私のように、逡巡し悶々とする人もいれば、そうすることなく、まさに選ばれた人のように、突き進む人がいる。私が思い煩うことはそうした人にとっては全く取るに足らないことだ。きっと思い悩むことなどないのかもしれない。私が、私の悩みを、悩む必要のないことと思ったとき、私は自分の歩んできた過去を否定することになるかもしれないと思った。私はそうした人になりたいと思ってなり切れなかった。それは、私しか持っていないかもしれない自分の個性、その個性を殺してまで、自分でない何者かになりたいと、心の底からは思えなかったのだ。私が思い悩むことは、私が思い悩むために存在し、また、私と同様に思い悩む人のために私が解決すべき課題であるかもしれないと思ったとき、私は自分を認め、自分を受容し、自分なりの生き方を見つけるべきかもしれないと感じたのである。

自分なりの生き方。それを探して、旅をつづける人もいる。自分探しの旅。それは、旅というものは、何も外に出て、海外を放浪したり、国内をヒッチハイクすることばかりではない。仕事をする日常、休日を過ごす日常、そうした日常の些細な出来事に、探すことはありありと現れてくる。自分の気持ち、現実との向き合い方、その対処、その反応、それらすべては私にとって新しく、私を映し出す鏡である。鏡に映った自分、は、探している自分というものそのものだ。気付かなくても、そこに顕われている。見ようとすれば、現実はまさに自分そのものなのだ。

他人にやさしくすること。他人に何か与えること。他人を大切にすること。他人からなにか受け取ること。それらすべては、結局自分そのもので、それを見つめることは、自分を見つけることに他ならない。それを修行とするならば、寺に籠って座禅をしなくても、日々の自分のあり方そのものが、修行そのものだ。修行は特別な意味を持たずして、自分の意識次第で、すべては修行になる。心を磨こうとすれば、それを行動として生活をすることで磨くことができる。人間がこの世に生を享け、この世から出ていくことができないのだから、この世の中で何をするか、それ自体がまさに生そのものなのだ。

私がかつて、自分を奮い立たせた言葉は、人生に期待してはならない、人生があなたに期待している。どのような環境にあっても、その環境ですべてが奪われても、あなたの精神を奪うことはできない。すべてが奪われても、あなたがそこでその現実にどう向き合うかの態度だけは、あなたが選ぶことができる。

人生は模索するためにあるのかもしれない。模索はなくなることはない。自分を見つけたり、自分とは何かを知ることが人生の目的ではなく、そうして知った自分を受け入れ、そのうえでどう生きるかを体現することが人生の目的である。私の生き様すべてが、時計が刻む針の一秒一秒が、それ自体目的である。

何かを運命づけられるということがある。生まれついて政治家になる人もいれば、寺の住職になることを定められている人もいる。家業を継ぐ人もいる。医者になる人。教師になる人。会社員になる人。そうした様々な人生は、その人の人生という海を航る船に乗って進む航路で、悩んだり楽しんだり、幸せを感じたり不幸を感じたり、成長したり立ち止まったりする。カントは、自分の死に際して、es ist gutと言ったという。自分が死ぬとき、自分がこれでよかった、といえる人生を送ることが大切なのかもしれない。

旅は終わることはない。旅はまた、これから始まる。私がもし自分の人生に満足したとき、満足、満ち足りた精神、それこそが幸せだ。そして満ち足りていない気持ちは、前に進む原動力だ。何かを求めて進む人間にだけ障害は現れる。悩みのないことなんてありえない。人間が生きている限り、悩みを失うということは、人生を放棄したことに他ならない。私が生きている今を大切にして生きること。真剣に向き合って立ち向かうこと。それが、悩みに対してできる、終わることのない己の価値の実証なのである。