人に対する負い目がある。
悪いことしてなくても、何だか、人といっしょにいると、申し訳ない気持ちが出てきてしまう。
申し訳ないから、できるだけ一人になろうとする。
「いっしょにいてすみません」、「貴重な時間を共に過ごしてしまってすみません」、みたいな、人に対する済まない気持ちを持ちたくないからだ。
続きを読む最近、憂うつな時間が多い。
何が原因というわけでもなく、押し寄せてくる不安と抑うつ。
沈んだ気持ちが、冬に冷やされて、ますます落ち込んでしまう。
たぶん、焦っているんだろうと思う。
自分の周囲の同年代は、子育てや新生活で新しい一歩を踏み出しているのに、ぼくはまだ何もできていない。実家で暮らしていて、10年前と変わらない生活を送っている。
30代はまだおじさんではないけど、若くはない。30歳になったとき、何の感慨も受けなかったが、書類に年齢を書くときは、やはり何かがこみあげてくる。
ぼくは人より数年遅れて生きている。精神年齢も、経験値も、同年代に比べて足らない。それは、石橋をたたいてたたいて渡る慎重な性格と、すぐ不安になる性向と、他人に対する恐れや卑屈な気持ちが、自分の次の一歩を踏み出すブレーキになってしまっているからだと思う。自分で自分の道を踏み出すのが怖くて逃げてきて、後先がなくなってからようやく焦って進みはじめる。そんな調子で数十年過ごしてきた。
変わらなきゃ、もっと成長しなくちゃ、と、ずっと焦りばかり募っていた。自分の性格や環境を呪ったりもした(今でも自分の性格は好きではない)。でも、自分の性格と付き合っていくうちに、この性格を自分が受け入れなかったら、誰も受け入れないだろうと思った。自分は自分が受け入れられなかった。それは、向上心が邪魔していたからだと思う。
自分の性格を直そうと努力した。巷にあふれる自己啓発書を読み漁った。啓発的な番組やドキュメントを見た。あこがれる人のまねをした。そうして自分を変えよう変えようと努力した。それでもうまくいかない。どこかでボロが出る。とっさに自分が出てしまう。落ち込む日々。
あるとき、諦めた。変わることは諦め、自分を諦めた。そうすると、自分を受け入れることができた。変な克己心がなくなった。今の自分ではいけないとか、本当の自分はもっと高いところにあるとか、そういう「今の自分」を認めない気持ちを捨て去り、どれだけ損しても、どれだけバカにされても、低く見られても、「自分はそういうふうになってしまったんだ」と諦めたとき、初めて自分を受け入れることができた。そして、それが新しい自分の人生のスタート地点になった。自分は自分で仕方がない。仕方がないなりにやっていくしかない。諦めて受け入れて、自分なりにやっていって、誰に文句を言われる筋合いがあるのだ、と。
憂うつな気持ちが続くとき、それはだいたい、自分の経験上、現状に満足していないときだ。今の自分の環境ややる気や姿勢や人との関わり方など、今のままではだめだと、変わらないといけない、と思っているとき、何となく憂うつになったり落ち込んだりする。憂うつは何かのサインであることも多い。もちろん過剰な時は病院に行ったほうがいいときある。でもそこまででなく、ただ漫然とした不安が抑うつの原因であるときは、まずは内省して落ち着いて自分の声を聴いてみることにしている。それはとてもつらい作業だけど、そうしないと解決しないまま、悪くなってしまう気がする。
今とても憂うつだ。そういうときは、コーヒーを飲みながら、少し、自分と話をしてみたいと思う。
幸せになりたいと願い、幸せについて考えるほど、幸せが分からなくなっていく。
私は研究的な性格であるため、大学生のとき、幸せとは何か、解明したいと考えました。
それまで、幸せとは人生における一つの位地で、一つの階層であると思っていました。
ですから、幸せとは何かを考えようとすると、人生とは何かという問題も必然考えなければならない。その解決を哲学書に求めました。
哲学書は難解で特に専攻していたわけではない私には理解ができない部分もありましたが、必死に自分の半生と照らし合わせながら、人生とは何か、目的とは何か、幸せとは何か、答を求め、書物を紐解き格闘しました。でもなかなか見つからない。理解できない。
書物の提示する、人間の在り方のようなものは、とても自分には達成できそうにない、また、社会でやっていけそうにない。さりとて世間に迎合する俗物にもなりたくない。せっかく生きているのだから「生きるとはかくあるべし」を体現したい。そんな葛藤がありました。それで自分のなるべき人物像、将来像を探したのです。大学生の時です。
実際、自分はそうした理想像に憧れ、努力はしたつもりでした。しかし、自分はすぐに人に言い負かされるし、勉強もできない、運動もできない、性格的にも引っ込み思案で何かを先陣切って進むこともできない。自分は何もできない。理想的な思想や観念ばかりが固まって肥大し、一方で行動や腕力に反映されない。頭でっかちだが形が伴わない、妙にちんちくりんな人間ができあがあっていったように思います。
私は兄さんの話を聞いて、始めて何も考えていない人の顔が一番
気高 いと云った兄さんの心を理解する事ができました。兄さんがこの判断に到着したのは、全く考えた御蔭 です。しかし考えた御蔭でこの境界 には這入れないのです。兄さんは幸福になりたいと思って、ただ幸福の研究ばかりしたのです。ところがいくら研究を積んでも、幸福は依然として対岸にあったのです。(行人、夏目漱石)
無性に生きていきたくなくなる時がある。
自分の価値を信じられなくなり、自分の存在の無意味さに耐えられない。
日常の些細な事に傷つき、自分を責め、孤立していく(気がする)。
声を上げることができない人は損だ。世の中はそういう風にできている。
僕は声を出すのが苦手で、話しかけるのが苦手で、会話が苦手だ。
しなくていい苦労を背負って、貧乏くじを引かされ、裏切られ、利用され、ぞんざいに扱われ、、、。
鈍感だったらどれだけ楽だったろう。能天気だったらどれだけ幸せだったろう。
色んな人がいる。多様性で世界は成り立っている。だから一人一人の個性が大事だ。そんなことは机上のきれいごとだ。一般の社会を渡っていく上で、有利な特性、得な性格、生きやすい性格、どれだけうらやましく思ったことだろう。自分が情けなくなるほど、不利で、損で、生きにくく、辛い思いをしてきたろう。なんて不公平に世界は成り立っているのかと恨んだ。努力が報われにくい性格なのだ。
疲れたり睡眠不足になると、そういった負の感情が、過去の嫌な思い出とともに、心の沼の底から沸き起こってくる。
辛くて、哀しくて、未来も暗く、一切がそっぽを向いて、自分ひとり、茨の道を進んでいかなければならないという気持ち。
どうしたら救われるのか。
どうしたら未来は明るく前方を照らすのか。
そんなことを考えながら、寝ます。
「内向的なわたくし」というブログのタイトルは、そのまま自分の性格を表現したものです。自分は物心ついた時から、内向的だったと思います。
内向的と、対人恐怖というのは、似ているが性質を異にすると聞きます。私は対人恐怖でした。
人と交わる場面を避ける。
パーティーが苦手。
飲み会が苦手。
友達ができない。
雑談が苦手。
いろいろな苦手を背負うことになりました。いずれ、年を経れば、克服されるものと思ってきましたが、実際はそうでもない。常に、後ろめたさはあるし、人に対する苦手意識があるし、緊張しやすい、話をするのが苦手という気持ちが、容赦なく襲ってきます。
そうした辛さは理解されにくいし相談しにくい。だから、こうしてブログに綴ってみたい。その思いでブログをはじめました。もしかしたら、同じような気持ちを持っているひともいるのかもしれない。そうしたひとが、文章を読んだとき、気づくもの、気づかされるもの、ヒントになるもの、そうしたものが、あるのかもしれない。
ひとりで悩んでいると、沼に落ち込んでいってしまう。だけど、ひとりじゃないんだと思えば、少し、楽になるかもしれない。
そういう気持ちでこのブログを書いて行けたらと思います。