内気で人見知りで話すのが苦手な社会人

不器用で内向きな人間の、日々の悩みや思考です

心の持ちよう

ここ1週間、何をするにもやる気が出ない。月初めに仕事などいろいろなことが立て込んでしまいその日その日で精一杯だったから、そこから解放された緊張感の弛みでそれまでの疲労や気疲れがどっと出たからかもしれない。あるいは今更に夏バテになってしまったのかもしれない。この土日はほとんど家から出ず、のそのそと掃除や片付けをして静かに過ごした。

気力がわかない。仕事も必要の最低限のみをこなすのみ。何か目標をもって考えたり、新しいことをやろうと考えたりすることが、今はできない。目の前にあって、やらなければいけないからやる、それ以上は考えることができない。少なくとも今は。

うまくいかないことが、6月から7月にかけて続いた。土日に持ち帰ってまでした仕事がボツになったり、ちょっとした負担があったり。そういううまくいかない時期は、気分もとても落ち込んでしまって、ちょっとした人間関係も苦痛に感じたりする。それを、気力で乗り切ってきたから、ぷつりとひもが切れかけてしまっている。

こういう何をしてもダメな時期は、自然と自分のことばかり考えてしまう。なぜ自分はダメなのかとか、もっと器用になれないのかとか、人と比べて劣等感に苛まれたりとか、自分の過去を呪ったりとか。それをまた、自分で分析をはじめてしまって、ダメな理由は何かとか、この性格のこの部分を直さないといけない、とか。直すためにはどうしたらよいのか、とか。自己憐憫に浸ったりとか。

大学生から社会人に入って初めのころは、それこそそれをノートに書いて、どうすべきかとか生きるとは何かとか、気が付いた哲学めいたことを忘れないように記録した。明日はもっとマシな人間になりたいと思って、そのために心掛けることとかを書いてノート数冊分になっている。でもこの前それを恥ずかしいながら読んだら、大体同じようなことがずっと書かれてる。結局なかなか同じところをくるくるくるくる廻ってるだけで、進んでるのか進んでないのかわからない。内省は、その時々でいろいろ条件が変わるから思考も考え方も違うのだけど、本質的に行きつくところはいつも同じで、それは自分の最も変わりにくいところなのだと思う。

だから、内省はもちろんするけれどほどほどで止めるようにした。本当は自己分析したいのを抑えるようにしている。それは、無意味であるからというのが一つと、内省の度が過ぎると結局自分の悪いところばかりを再生してしまって、逆にそればかり意識してしまい、ますますダメになってしまうからだ。自意識過剰というのは、それをやめようとすれば逆説的に自意識過剰になって、自分を苦しめてしまう。でも、結局本質的なところが大きく変わらないのなら、変わらない部分で変に苦しんで生きるより、苦しむ価値のある部分で必死に生きていったほうがいい。変わるには、死ぬか宗教に入るしかない。変わらない部分なのだから、それはもう、嵐が過ぎ去るのを待つようにして、じっとしているのが一番いい。よく寝て、野菜とか食べて、本を読んだり好きなことをして、じっと待つ。

 

社交不安障害について

表題のとおりです。

最近はだいぶマシになってきたのですが、社交不安障害(社会不安障害)について、思っていることを書いてみたいと思います。

  •  僕の症状(高校時代~現在)

人と接したり雑談するのが苦手。会食、談笑の場からは、一刻も早く立ち去りたい。面白いことも出来ず、気遣うことも出来ず、お金を置いて早くこの飲み会の場から抜け出したい。会議はまだ大丈夫、話す内容に中身があることならある程度話せます。懇親会は、、、嫌だけど仕事だから嫌々仕方ない、最小限で済ます。立食パーティーとか地獄か。

 発端は良く分からない。ただ、自分をふと客観視する時があった。プツ、と世の中の見方が変わったときを憶えている。あと、いくつか重大な挫折があった。それ以降だ。たとえば予備校に並んでいたとき他人の目線が異常に気になりだして、それからというもの、人前で席に着くのが一苦労で、場所は端の端に陣取り授業が終わるまで席を立たない、ジュースを飲むゴクリの音が気になって飲めない、顔は赤く、汗が出る、こんな感じだから人気講師の授業より人気(ひとけ)のない授業をとる。高校生の時から、ずっとそんな調子で、何とか大学を出て、何とか社会人になった。

  • 社交不安障害を知ったのは

僕は、社交不安障害を医師に認定してもらったわけではない。心療内科に行ったことはあるが直接診断書をもらったことはない。だから、社会不安障害という概念を知るまでは、自分が普通とは少し違う、ということを認識できなかった。「みんな同じように不安や恐怖を感じているけど、感じていないように振る舞っているのだ。」と、当時は本当に思っていた。こういう心の問題は、「普通」なのか「普通じゃない」のか、自分では知ることができない。無知の知は大学に入ってからだ。大学の時に、教養科目に「精神病理学基礎論」みたいな授業があって、その時に、人格障害や不安障害という概念が存在するということを知った。「自分も当てはまる!」という症状が、それまで自分が「普通」だと思っていたことが、そうした概念の症例のひとつとして出ている。症例A、症例Bと、読んでいくうちに、確かに自分はこういった精神病理や人格障害ほど酷くはないかもしれないが、一般的な普通とも違うし、どちらかといえば「そちら」側ではないかと思った。若干気が楽になった(変な言い方かもしれないが)。社交不安障害というものがあるということを知って以来、自分もその仲間だと意識せざるを得ない。

  •  傾向と原因と対策

  • 傾向

社会に社交は付き物だ。社交というと貴族の話のようだが、現代風に落とし込んで「人との関わり」と広い意味で捉えれば、社会は社交で成り立っている。いろいろな人がいる。無口な人、おしゃべりな人、KY(空気が読めない)な人、大声な人、寡黙な人、朴訥な人。一般的なイメージでは、「社交不安障害=無口な人」くらいなものだろう。でも無口であっても会食や外に出ることが平気な人もいる。KYであっても、会話することに「不安」を感じていなければそもそも社交不安になどならない。社交不安とは何なのか。

僕が苦しんできたのは、人との関わりに対する不安だ。もちろん普通の人だって新しいグループに入るときは不安だろうけど、僕の場合、前からのグループにだってとても不安を感じる。新しいグループなんて決死の覚悟だ。夜に飲み会があろうものなら、一日の大半がその飲み会を無事過ごすことができるかの心配に費やされ、生活を平常に送るのにかなり支障をきたす。新しかろうが旧知だろうが、人との関わり全般に不安がある。不安の根源にあるのは何なのか。いろいろとずっと考えてきた結果、原因が何となくわかった。

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不安はあっても空は青い。きれいなオリンパスブルーと三浦半島(だと思う)。

 

  • 漠然とした罪悪感(原因)

何をしたわけでもなく、悪いこともしていないのに、どこか、社会や人に対して引け目がある。例えば、部活をドロップアウトした。勉強を頑張らなくて三流大学にしか入れなかった。人を傷つけた。いじめられた。ハブられた。パシリにされた。そういう、思春期特有の、むき出しの人間関係が飛び交う、無法地帯の学校生活の中で、自分を守る術を知らず、やわらかいままのやさしい心は、つまづきやすい。心の傷を負って、癒しきれないままそれでも何とか社会を生きる。生きることに必死。でもどこか、社会や人との交流に負い目、引け目を感じる。

自分には罪悪感がある。自分は高校の時につまづいた。自分はダメな奴だ、取るに足らない存在なのだと思った。だから、人に対しては、話したりするとその時間を相手から奪って申し訳ないと思ったりする。また、子供社会では(大人社会でも)弱い人はカモにされやすい。それは、動物としての本能なのだろう。子供社会では「腕力」がものを言う。大人社会では、人は「罪悪感」に付け込みやすい。「後ろめたさ」は、その人の「良心」の現れなのだけど、「心の隙」でもある。悪い人は、そこに付け込んで無理やりを言ったり要求を飲み込ませようとする。動物的本能なのだろう。過去の経験から、他人に対する警戒心が異常に強く、簡単に信用できない。負い目を持ちつつ他人を信用しないという、何ともいびつで説明しがたい性情が出来上がる。

  •  対策

考え中。 すみません。でもそんな簡単に解消されるものなら苦しんでない。。。

ただ、僕はずっと長いこと、この症状と一緒に生きてきた。性格なのかもしれない。症状が緩和することはあっても、飲み会で「ウェ~イ」したり皆で祭りなんかする ネアカになれるとは思えない。その意味で、この性格ありきで、人生を考えることを大切にしている。

まず大前提として、「人との関わり」は楽しいはずのものだ。そして、何をするにしても「人との関わり」は避けられない。それが、僕たちにとっては楽しくない、それどころか不安というのは、とても悲しいことだ。損なことだ。他人が苦労しないところで苦労したり著しい不安を感じるのだから。人生において大いに損をしている。だから、僕はかなり行動が制限されるし慎重になる。これまでの消極的な価値観ゆえ、趣味もないし、楽しいこともあまりない。でも仕方のないことだと割り切って、社交性を著しく欠いていても、ほかに楽しいことがあればそれでいいのではないかと思う。

例えば僕は読書が好きだ。とくに明治~昭和初期の日本の固めの本が好きだ。心が落ち着く。こういう文章を書きたいなと思う。それを伸ばしていく、その延長線に、もしかしたら何か解決策が落ちているかもしれない。

この間、吉成真由美さんの「知の逆転」を読んでいて、脳神経科医のオリバー・サックスとの対談の中で、興味深い話があった。

 

吉成氏:(中略)なぜ「失われた部分」ではなく、「保存されている部分」のほうに注意を向けていくことが大事なのでしょう。

サックス:それは、保存されている能力に対しては、なんらかの形で働きかけることができるからです。www.nhk-book.co.jp

 


 これは、脳障害の患者に関する話なので意図しているところは異なるし、中略で前後の文脈を無視しているので厳密な引用になっていない。ただ思ったのは、僕もこれまで、凹んだ部分に気を滅入らせすぎて、凸の部分をあまりに無視してきたのかもしれない。どこかに凸の部分があるはずだ。楽しいこと、向いていることがきっとある。凹は最低限でいい。凸を探すほうがよっぽど楽しい。手を動かすこと、カメラ、etc etc...。

 

何をもって克服といえるのか、よく分からない。そしてよく分からないうちに、歳だけは取ってしまう。僕も、いまだに気持ちは浮き沈みが激しくて、特に低気圧の時は消えてなくなってしまいたいと思うときもある。それに、大人数で何かをするときはもうへとへとになる。寝不足になると、世界が灰色になる。でも、今はいろいろな情報があるし、何より自分だけじゃない(なさそうだ)、と思える。

www.huffingtonpost.jp

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痛みを感じないと、それが何かはわからない。

胃痛になって初めて胃の場所がわかる。その意味では、人との会話が苦しいということは、会話とは何か、コミュニケーションとは何か、人とは何か、ふつうは漠然としているこれらについて、より深く考える機会なのかもしれない。そう思いたい・・・。

 

www.youtube.com

  いい曲。聞いて明日もがんばろう。

抗不安剤を飲んだ話④:セルシンの効用について

 以前、抗不安剤を飲んだ話をいくつか書いた。不安が日常的で、押しつぶされてしまいそうで、明るい未来が見えない。耐えきれなくて、心療内科に行ったときに、処方された薬が、抗不安薬の「セルシン」だった。仕事をしていて、本当につらいとき、一粒を、水で流し込む。味は憶えていない。水で簡単に溶けて、胃の中に入っていった。

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treetrip.hatenablog.com

 セルシンは効いた。不安が沈む。不安や懸念に対して「鈍感」になる。神経が鈍感になる。常時肩が凝って不安に苛まれていた自分に、新鮮な感動があった。何か、生きていく上での肩の荷がずいぶん下りた気がした。

 

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コミュ障にとっての幸せとは何か。

幸せとは何だろうか。

 

ぼくは陰キャラだ。内気で人見知りだ。いわゆるコミュ障だ。初対面のひととはそれなりにしゃべれるが、2回目以降がきつい。人との距離感が測れない。近づきすぎたら嫌われるかもしれない、離れすぎてはよそよそしすぎるかもしれない。何を話したらいいのだろう、そんなことばかり考えて会話どころではない。最悪なのは、自分の声が小さくさらに聞き取りづらいことだ。だから、話す内容はもとより、「しゃべる」ということ自体に苦手意識がある。かくしてコミュ障からは抜け出せていない。

 

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学生時代

今からずいぶんと昔のことになる。

一人暮らし歴は長いが、大学生の時の一人暮らしは今でも特別だ。

ぼくが一人暮らしを始めたのは、高校を卒業して地方の大学に入学したときからだ。

ぼくはめぞん一刻が好きだった。あんな感じにあこがれていた。

でもいざ実家を出て一人で暮らしていくということは、楽しみでもあり不安でもあった。

自分ひとりで生きていけるのだろうか。料理をすることができるのか。友達はできるだろうか。いろいろな契約とか自分でできるのだろうか。

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雑談が苦手なのですが。

 僕はそういう輪の中に入ることができない。

致命的に雑談が苦手だからだ。

どこに行くとも知れない会話の流れに乗ることが出来ない。

視線をどこに向ければいいのか。

いつ笑って、いつ相槌を打てばよいのか。

分からないから空気を必死に読もうと思って、読むのに必死で会話をすることができなくて、結果的に自分が空気になってしまう。

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