内気で人見知りで話すのが苦手な社会人

不器用で内向きな人間の、日々の悩みや思考です

雑談が苦手なのですが。

 僕はそういう輪の中に入ることができない。

致命的に雑談が苦手だからだ。

どこに行くとも知れない会話の流れに乗ることが出来ない。

視線をどこに向ければいいのか。

いつ笑って、いつ相槌を打てばよいのか。

分からないから空気を必死に読もうと思って、読むのに必死で会話をすることができなくて、結果的に自分が空気になってしまう。

 

そうすると言われる。

「〇〇君、大丈夫?眠い?元気ない?」。

すると、僕は急いで笑って、

「大丈夫です、すみません。ちょっとぼーっとしてました。よそ事を考えてました。」

と取り繕う。すると周囲は「しっかりしなよ」とか言って笑ってくれる。けど、せっかくの会話の流れを壊してしまった自分がふがいなくなる。穴があったら入りたくなる。

本当はぼーっとなんてしていない。必死に空気を読もうとしていた。でもそれが出来ない。できないから一層がんばって会話に食らいついていこうと集中する。ますます話せなくなる。

悪循環なのだ。ほんとうは雑談なんて集中するものでもないし、何となくで会話するものだ。人から良く言われたのは、「会話は楽しむものだよ」。

考えたら、会話をするのが楽しいなんて、忘れていた。そんな感情は、中学生くらいのときにどこかに行って、そのままになっている。確かにおっしゃる通りで、「雑談がつらい」なんて、「趣味がつまらない」 と同じくらい矛盾した話かもしれない。本当は楽しく雑談して、人との距離を小さくするのが一番だ。普通の人はそれが普通なのかもしれない。

つらいなら雑談しなければいいじゃないか、という向きもある。でも雑談は、ある種、サルの毛づくろいのようなものだ。人との距離を縮めたりするには大事なことで、やっぱり取らないよりは取るほうがよい。それは頭ではわかっている。苦しいくらい分かっている。

でも自分には、それが難しい。なぜか、と言われると分からないのだが。みんなが当たり前にやっていることが、自分にとってはとても難しいときがある。逆に、みんなが苦しそうなことが、自分にとってはさほどでもないこともある。人間とは不思議なものだ。

結局向き不向きなのかもしれない。人間関係の得意不得意も、向き不向きなのだ。

巷の本には、いかに人間関係を良くするかとか書いてあるけど、結局そういうものは、人間関係に向いている人が書いている本だから、向いていない人が読んでも、余計に自分を苦しめてしまうだけだと思う。

向き不向きと割り切るのは、もちろん簡単なことではない。僕だって自分が人間関係に向いていないなんて認めたくなかった。でも認めるしかなかった。訓練したら人たらしになれるかもしれない。でも、やっぱりそれは訓練が必要だ。そしてその訓練は、もう8年くらいやった。嫌々やったのだ。でも、僕が8年かけて培った人間関係の技術なんて、向いている人なら3か月で身に着けるだろう、それも楽しみながら。ぼくは苦しみながら長い年月をかけてそれを得た。でも、その8年は、結局なんだったのだろう。そして、もし人たらしになりたいということを自分の目標にしているのならば、これから先もまだ、苦しみ続けなければいけないのだろうか。他の普通の人が楽しく3か月で習得するものを、そこまで苦しみながら得ていかなければいけないのだろうか。それほど人間関係というのは重要なのだろうか。そう思ったら、人生を無駄にしている気がして、もういいやと思った。

ぼくは、人間関係に向いていないのだ、と、認めてやっと、肩の荷が降りた。楽になった。そして、人生に希望が持てるようになったのだ。自分の好きなことをやろうと。がんばって無理をしなくてもいいと。

もちろん損をすることだってあるだろう。とてもある。人間関係はやはり重要だから。でも、それに費やす苦しさを重要性と天秤にかけて、苦しさが重かったら、ほどほどでいいんじゃないかと思う。

友達なんて少なくていい。世渡りだって下手でいい。損をしてもいい。不器用だっていい。

そういうふうな性格なのだから諦めたほうが、よっぽどいい人生を送れると思う。

自分を諦めたときにはじめて、新しい自分の人生が見えてくるような気がする。