内気で人見知りで話すのが苦手な社会人

不器用で内向きな人間の、日々の悩みや思考です

絶望

人が変わろうと決意する。その一番の薬は絶望なのだと思った。

活動の色々が不自由で、各方面で行き詰まりを感じ、万策が尽き、夢や希望どころか明日明後日の自分にすら悲観的になり、将来の自分が描けず、今の自分しか見つめることができないとき。外の世界に何一つ期待できず、絶望的な気持ちになってはじめて、何とかすることができるものは外には何一つなく内なる自分しかない、自分を変えるよりほかに方策がないとわかる。書いてみれば当たり前のことなのだけど、今になりようやく身に染みて気付いた。

自分に真摯に向き合っているようで、実は逃げ道を探し、希望的観測に浸っている。どん底にあってもそんなところがあったように思う。

自分の現在を真摯に見つめ、現状の自分で良い未来予想図を描けないのなら、もはや自分を変えるしか方法がない。痛かろうが苦しかろうが。良い将来が描けないのなら、今の苦しみから逃れることには何の意味もないではないか。人生における願いが、より良い人生を送ることなのならば。

そしてその一番の障害になるのが思考であろう。思考は現状維持の生温い環境を好むものだから、自分を変えようと思ったとき、それは思考から発するのではなく、肉体から発するものでなければならない。生物は順応するものだから、きっと思考は後から追いついて慣れてくれるのだと思う。これまでの思考はそこに置いてしまって、重たい身体をエイやと動かして、とにかく身体を変わりたい方向に導いてやって、そうして何とかやっていくしかないのではないか。

最近、もう直に35歳を間近に控える年齢になる。中島敦は33歳で亡くなった。芥川龍之介は35歳で亡くなった。今と昔では死に関しての捉え方が違うから比較することはできないけれど、思うことはある。保守的で内省的に生きたところで何の意味があるのかと感じる。生来の性質は不変だから本質的には変化はないのだろうけど、せめて見てくれだけでも変えていかなければ、泥船に乗って沼の奥底に沈んで行ってしまいそうだ。

メメントモリ:死を意識せよ

看脚下:足元を見よ

この二つの言葉を自分への叱咤としたい。