内気で人見知りで話すのが苦手な社会人

不器用で内向きな人間の、日々の悩みや思考です

コミュ障にとっての幸せとは何か。

幸せとは何だろうか。

 

ぼくは陰キャラだ。内気で人見知りだ。いわゆるコミュ障だ。初対面のひととはそれなりにしゃべれるが、2回目以降がきつい。人との距離感が測れない。近づきすぎたら嫌われるかもしれない、離れすぎてはよそよそしすぎるかもしれない。何を話したらいいのだろう、そんなことばかり考えて会話どころではない。最悪なのは、自分の声が小さくさらに聞き取りづらいことだ。だから、話す内容はもとより、「しゃべる」ということ自体に苦手意識がある。かくしてコミュ障からは抜け出せていない。

 

 

今の社会はネアカ社会だ。コミュ力のある人が活躍する社会だ。そして幸せについても、ネアカ面が重要視される。積極的に野外活動をしたり、休日はコンパに行ったり、たくさんの人とのつながりを持つことが、幸せの指標になっているように喧伝されている。ぼくもそう思って、なるたけ外に出たり、あれば集まりに参加し、コンパに誘われたら断らないようにした。毎度毎度へとへとになって、休みが休まらないような生活を、世間が示す「幸せ」になるために続けた。人並みの幸せになるためには、努力をしなければならない。そのためにたとえつらくても頑張らなければならない。そう思って暮らしてきた。

 

嫌なことがあった帰り道、ふと、それで本当にぼくは幸せになれるのか?と思った。

 

コンパなんて楽しいからするものだ。外に出るのも刺激が楽しくて出ていくものだ。そう、普通の人からすれば、新しいことは楽しく、人との出会いはうれしいのである。それが自分には楽しくない。時には苦痛のレベルに達する。コミュ障にとって新しい人との出会いは緊張でしかなく、新しい(人間関係の)世界に飛び込むことは限りなく勇気のいることだ。

 

普通のひとは、息をするように会話することができる。それができない。普通の人は、溶け込むように会話の輪に入っていくことができる。それができない。普通の人は、自然なアイコンタクトができる。コミュ障にとって目を合わせるのは非常に不自然に行う必要がある。普通の人が普通に行えることを普通に行うことができない。少なくとも意識して行う必要がある。

 

健康は、風邪を引かないとその大切さが分からない。胃の場所は胃痛にならなければ分からない。コミュ障も同じようなものだ。苦痛があって、はじめてその実態が何かを考えることができる。健全な人は、コミュ障の苦しみが何か、たぶん一生分からないし、コミュニケーションについてを過剰に意識することもない。当たり前ということは空気のようなもので、それ自体が意識されることがない。だから普通の人はコミュ障が何に苦しんでいるのかも分からない。さらにコミュニケーションは胃と違って実体のないものだから、ますます理解されにくい。健常者とコミュ障は、見た目は変わらない。しかし、全く理解しあえない壁があるのだと思う。

 

話を戻す。

 

一般的な「幸せ」は、そうした普通のひとにとっての幸せである。ではそれが自分にも当てはまるかと言えば、そうではないと思う。リア充。そのような「普通な幸せ」に憧れるし、なりたいと思うけど、悔しいながら、僕の幸せはそこにはないように思うのだ。

 

幸せは憧れではない。幸せは勝ち取るものでもない。幸せは、それだけで満ち足りている状態、自己充足的な状態である。そうなるために努力すべきものでもなければ、そのために無理をする必要のあるものでもない。自分にとって、満足のいく、安心できる、落ち着く、自然と前を向こうと思える、そういう境地であると思う。そして、自分がどのような状態の時、そのような境地になるのか、それを考えることが、幸せについて考えることだと思う。

 

僕は人より刺激に過剰に反応してしまう。大勢の人と交わることも苦手だ。HSP(Highly Sensitive Person)というものかもしれない。普通の生活自体が、ぼくにとってはかなり刺激的で、それだけで疲弊してしまう。何かをこつこつ一人でしているほうが楽しいし向いている。人が退屈に思うことが自分にとっては楽しい。それは弱みでなくて個性である。活動的でなくてはいけないというのは押し付けである。そういうことができない、向いていない人だっている。それは悪いことではなくて、ただ単に個性というだけだ。

 

不幸せとは、自分の幸せと、自分が向かっている幸せが、一致していないことだ。一般に見做される幸せの状態が、必ずしも自分の幸せと同じとは限らない。たくさんの人とつながることが幸せとは限らないし、活発な社会活動を行うことが幸せとも限らない。少なくとも僕の幸せではないようだ。

 

自分がなりたいと思っているものと、自分が幸せを感じる状態が異なっていることは、不幸なことだ。もし、僕が、キラキラ輝くような人になろうと努力したりネアカ人間になろうと無理をすれば、きっと精神が参ってしまう気がする。そうして心の病になってしまうかもしれない。それはとても不幸なことだ。

 

現代の社会は、ある種、幸せの概念に対する洗脳状態にあるように思う。リア充であることが幸せの最低条件であるように言われる。非リア充はそれだけで充実していないというレッテルが貼られる。でも、現代が求めるそのような人間に必ずしもなる必要もないと思う。なれないものはなれないし、なれないのはきっと、自分の中の生物的な何かが、それはあなたの方向ではないと、本能的に悟っているからだろう。身体が大きい人もいれば小さい人もいる。声が大きい人もいれば小さい人もいる。それぞれに応じたやり方、適切な方向性があって然るべきだ。

 

なりたい自分や、幸せな自分とは、今の自分の延長線上にあるものだ。変化はあるかもしれないが、自分と別の人間になることはできない。そして変化は少しづつやってくる。それが成長であり自分の延長にあるものだ。横浜に行きたいのに北海道に向かっていても、目的地からは遠く離れていくだけだ。そこに努力があっても、その過程で得られるものがあるにしろ、徒労に終わってしまう。目的地が違うならそれに見合った順路を考えないといけないし、目的地が分からなかったらそれを見つけていくことの方が大事だ。

 

僕にとっての幸せは、日々を平穏に暮らし、本当に気の合う友人とたまに食事をしたり出掛けたりし、家でコーヒーを飲みながら本を読んだり片付けをしたりする、そうした日々の中にある。そこにこれからの生活の中で、プラスアルファが増えていくかもしれないが、無理に増やすこともないし、できなければできないでいい。焦って無闇に外の喧騒に出たり、知らない人のパーティに行くこともしたくない。したいと思った時だけすればいいと思う。自分の中に、少しづつ新しいことを取り入れていって、何かしっくりくるものがあればそれを進めていく。そうしたやり方が僕には合っている。

 

かつては、そうした考え方を老人じみた臆病な考え方として切ってきた。また、活動的に過ごしている友人たちを見て、そうでない自分はどこか欠陥があるのではないかと思った。情けないと思った。自分を嫌いに思った。そして無理を重ねた。だけれどもそれは違う。自分には自分のやり方があり、自分の幸せがある。それが他の人とずれていたとしても、別に何の不思議もないことだ。画一性を求める現代社会は、一層右に倣えの風潮を帯びている。右に倣えない人は、空気が読めないとかコミュ障として見下されたり嘲笑される。それでもそれでいいのだ。自分にとっての生き方を見つけ、自分にとっての幸せを求め、その先に自分のやりたいことがあれば、それ以上に充実した人生など存在しないと思う。