内気で人見知りで話すのが苦手な社会人

不器用で内向きな人間の、日々の悩みや思考です

学生時代

今からずいぶんと昔のことになる。

一人暮らし歴は長いが、大学生の時の一人暮らしは今でも特別だ。

ぼくが一人暮らしを始めたのは、高校を卒業して地方の大学に入学したときからだ。

ぼくはめぞん一刻が好きだった。あんな感じにあこがれていた。

でもいざ実家を出て一人で暮らしていくということは、楽しみでもあり不安でもあった。

自分ひとりで生きていけるのだろうか。料理をすることができるのか。友達はできるだろうか。いろいろな契約とか自分でできるのだろうか。

 

はじめての下宿

下宿先1日目。何も置いていない部屋に、段ボールを机代わりにして近くのスーパーで買った惣菜弁当をひとりで食べ、しーんとして物音ひとつない部屋のなかに自分ひとりがいる心細さ。はじめて感じる体験だった。普段は無口で人をなるべく寄せないようにしているくせして、静かすぎて居たたまれず、だれかと話をしたいと思っても誰もいないので、仕方なくコンビニに行っておでんを食べた。

最初はさびしかった一人暮らし。慣れない土地で、慣れない関西弁に揉まれながら、大学で少しづつ友人もでき、徐々に生活リズムも慣れてくる。ぼくは不安症で、新しい世界に飛び込むことを極力避けたがる性格なのだけど、慣れとはすばらしいもので、ある程度経つと、なんてことはなくなる。ものごとは慣れである。向き不向きはあれど、漠然とした不安については、その環境に慣れればさほど問題ではなくなる。これは、一人暮らしをして感じた人生哲学のひとつかもしれない。すべては慣れである、向き不向きは別として。やってみなはれ。無理はせず。

ぼくは何者か

一人暮らしに慣れて、次に当たった壁は、やることがないときに、本当にやることがないということだ。ぼくは大学に入って早々に怪我をして、あまり外に出られない時期があった。友人が見舞ってくれると嬉しいが、そうそう毎日という訳にはいかない。しゃべる相手もいない。そんななかで、一人、本を読んだり音楽を聞いたりして過ごした。そうして気付いたのは、自分が内向的であるということだった。

ひとりで暮らすとは、自分と向き合うこと

家族や友人と暮らしていると、否が応でも会話がある。たとえ実家で引きこもりで他人との会話を拒絶していても、同居している空間にいる以上は、拒絶する対象がある。親しさであれ、憎しみであれ、好きであれ嫌いであれ、人と暮らすということは、その中の関係性の中で生活するということだ。だから、どんな日であれ、どんな短い時間であれ、自分ではない何かに気を使い気を使われることになる。そして、その環境のなかで、自分というものをつくって、自己を形成していく。

それが一人暮らしだと、何もない。自分以外誰もいない部屋。誰に気を使うことも使われることもない環境。もちろん社会や家族、友人と隔絶されては生きていくことができないから厳密には関わりを断った存在ではないかもしれないが、それでも部屋にいる限りそこには自分しか存在しない世界がある。そこは、たった六畳一間の小さな部屋だったけど、広大な自由が広がっていた。はじめてそこで僕は自由とは何かを実感した。

自由

そんな自由の世界に飛び込んだけど、最初僕は羽をひろげることができなかった。今でもうまく広げることができない。家族も先生も、じっとしていることはいやほど教えてくれたけど、羽を広げて空を飛ぶ方法は教えてくれなかった。誰でも放せば飛んでいくと思っている。飛び方は生来知っているものと思っているらしい。でも、知らない人もいる。僕は知らなかった。知らないがゆえに、人一倍苦労した。最初はとにかく困惑した。何をすればいいのか、自分は何をしたいのか。思い返せば、自分は家庭でがんじがらめ、学校でがんじがらめ、一人っ子だったから親にがんじがらめ。敷かれたレールの上を、どうやって早く走っていくかだけ考え、レールをはみ出すことなど考えたこともないような人間だった。だから、そのレールの敷かれていない世界など存在することも知らないし、考えようともしなかった。そのレールが消えた。ここから先は自由だ、どこに行っても可いのだと言われても、困る。どこに行けばいいのか分からない。どこに行きたいのか分からない。大学は有名なところに進学した。浪人もしなかった。でも僕は初めてそこで、自分は何をしたらいいのかすら知らない人間、意志のない人間なのだと分かった。

はじめての哲学

ぼくはそれで、自分が何をすべきかを考え始めた。一人暮らしだから、何に気兼ねすることもない。高校の時、倫理が好きだった。哲学は、生きることを考える学問だ。生きるとは何かがすなわち、自分が何をすべきかだと思った。だから、高校倫理で齧った哲学書の分厚いやつを読んでみようとしたり、図書館でそういう類いの本を渉猟したり、それを自分なりに咀嚼して、自分の過去や感じていることや悩みといっしょにノートに書いたりした。人生とは自分の生に意味付けをしていくことだ!なんて、分かったような分からないようなことを、でもその当時は自分なりに感動したものだ。

悩みも苦しさも歩くこと

それもこれも、自分が内向的だからだと思う。一人暮らしは自分を深く知ることだ。同居していれば何もすることがなくても漫然と時が過ぎていく。でもひとりだと、何もすることがないと本当に何もすることがなくて時間が流れない。だから、何かしら自分を発現しようとする。アルバイトやサークルやボランティア活動とか、外に関心が先行する人はそういう外の活動を精一杯するだろう。生活を充実し自由を謳歌するだろう。でも僕が思い出すのは、一人暮らしの中で、一生懸命自分と対話して、自分なりに悩み、自分なりに考えた、当時の記憶だ。何に悩んでいたか、何を苦しんだか、もう忘れてしまった。ただ、悩みながら自分の道を開こうとしていたことだけは覚えている。なくなってしまったレールの先を、今度は自分の足で歩いていく。どこに行けばいいのかわからないけど、とにかく無闇に行ったり来たりしたことを憶えている。そして、結局のところ、何が正しいのかとか、生きることとは何か、自分は何をすべきか、という問いの答えは見つからなかった。けれど、苦悶し呻吟した過程のところどころで見つけた、自分なりの答えらしいもの達は、社会人になって、学生時代とは別次元の悩みにぶち当たったときに、弱い自分の拠り所であり、心の中の珠玉として光っている。当時鍛えた足腰があるおかげで、何とか今も社会で立っていられる。

一人暮らしとは

ぼくは一人で暮らして初めて自分というものを知った。自由を知った。悩むということを知った。挫折を知った。助けてくれる人を知った。知らないことだらけだということを知った。一人暮らしをしなければ、きっと知らないことを知らないということすら知らないまま、まるで世界を知っているかのように、人生を歩んでいただろう。

社会人になって、いろんな世界を知った。いろんな人がいて、いろんなものが建っている。いい人もいれば悪い人もいる。裏の世界を知る。学生の時よりも、お金を持った。部屋も広くなった。出会う人と別れる人も増えた。一人暮らし歴も年を重ねるとともに自然と長くなった。でもぼくは、一人暮らしといえば、どうしてもあの六畳一間の小さな部屋に広がる無限の自由に絶えず悩み苦しみながら前に後ろに往来した学生時代を思い出すのだ。